2009年12月18日金曜日

埼玉の偉人

埼玉ゆかりの偉人

赤沢 仁兵衛  あかざわ にへい 甘藷栽培改良家、赤沢式増収法
川越市  1837~1920
甘藷栽培改良家。入間郡今福村(現川越市今福)の人。川越一帯で栽培していたサツマイモの収量を上げるため、赤沢式増収法を考案した。


奥貫 友山   おくぬき ゆうざん 教育者・慈善事業家
川越市  1708~1787
江戸時代中期の慈善家で教育者。奥貫家は久下戸村(現川越市)の名主を代々勤めた家柄で、寛保2年の大洪水の際には、私財を投げうって罹災者救恤に尽力した。
また、寺子屋兼漢学塾を開設し、郷党の子弟教育にも貢献した。


高林 謙三    たかばやし けんぞう 医師・製茶機械発明家

川越市  1832~1901
製茶機械発明家。川越小仙波で医者を開業する傍ら、製茶機械の研究に着手した。明治18年に生茶葉蒸器械・焙茶器械・製茶摩擦器械・改良扇風機の特許を取得し、明治31年には茶葉粗揉機を完成、特許を取得した。


伊藤 由哉    いとう ゆうさい 教育者・医師
上尾市  1833~1881
入間郡高倉村(現入間市)の生まれ。医術を修め、初め埼玉郡馬込村(現さいたま市岩槻区・蓮田市)に住んだが、その後原市村(現上尾市)に住み医者として開業している。医業のかたわら近在の子弟を教え、多くの有為な人材を世に送り出している。教えを受けた人の中に帝国議会で活躍した大岡育造や福沢諭吉の養子となって発電事業に功績を遺した福沢桃助がいる。


雲室  うんしつ 教育者
上尾市  1753~1827
天明8年(1788)上尾宿(現上尾市)に、山崎武平治らと協力して、郷学ともいえる聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)を開設し、同宿や近在の村々の子弟の教育に当たり、また宿民等にも講義を行う。寛政4年(1792)上尾宿を去るが、その後も宿民との交流は続いた。


黒須 康之介  くろす こうのすけ 数学者・解析学で業績
上尾市  1893~1970
数学者。瓦葺村(現上尾市)生まれ。東京物理学校(現東京理科大学)を経て、大正6年(1917)東北帝国大学理科大学卒業。海軍経理学校教授、昭和14年(1939)東京高等学校教授、24年立教大学理学部教授となり、32年同大学退職。解析学、特に変分法で優れた研究業績をあげた。東京理科大学理事にも就任した。


須田 治兵衛  すだ じへえ 江戸時代の豪商
上尾市  ---~1734
江戸時代の南村(現上尾市)の名主・豪商。須田家第17代当主。同家は中世からの系譜を引く旧家であるが、岩槻藩領時代の延宝期(1673~81)には領内の多くの村々の年貢を肩代りする財力を貯える。質屋・酒造業を営むが穀物の取引も岩槻藩時代から行っている。桶川宿助郷惣代を代々勤めているが、第17代治兵衛は享保15年(1730)に、幕府の菜種作奨励策により代官から足立郡の世話役を命ぜられた。


須田 大八郎  すだ だいはちろう 江戸時代の豪商
上尾市  1796~1854
江戸時代後期の久保村(現上尾市)の豪商。南村(現上尾市)須田家の分家で、醤油醸造・質屋を営み、本家とともに穀物・紅花の取引きを行う。紅花訴訟事件では、息子が代表で争った。


森 朴斎  もり ぼくさい 教育者・医師
上尾市  1806~1860
桑名藩(現三重県)の医師。江戸時代末の弘化年中(1844~48)に平方村(現上尾市)を訪れ、当時名主であった永島太重郎に見込まれ、太重郎が自宅の庭に学舎を建て、塾を開いた。約15年にわたって教育に専念した。


山崎 武平治  やまざき ぶへいじ 教育者・俳人
上尾市  1764~1826
江戸時代中~後期の上尾宿(現上尾市)で旅籠を経営した俳人・教育者。上尾宿に聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)を開設し、学僧雲室(うんしつ)を招くことに尽力し、雲室が江戸に去ってからは、同塾を主宰した。


山田 弥吉  やまだ やきち 宮大工
上尾市  1844~1893
大谷本郷村(現上尾市)在住の宮大工。市内向山不動堂彫刻・原市山車彫刻などのほか、川越市蓮馨寺、鴻巣市勝願寺の彫刻を手がけている。


生沢 クノ   いくさわ くの 日本の女医第2号

深谷市  1864~1945
荻野吟子に続く日本の女医第2号。深谷で蘭方医の3女として生まれる。女医を志し医学校に入学し断髪男装のうえ別室で苦学を強いられる。女性に医師試験を解放する請願を働きかけ、改正後23歳の若さで女医となる。「女赤ひげ」ともいうべき草の根医療に尽力し、特に女性の病を専門として、「医のさむらい」でありたいと一生を医療にささげた。


尾高 ゆう  おだか ゆう 官営富岡製糸場第1号伝習工女

深谷市  1858~1923
官営富岡製糸場の第1号の伝習工女。渋沢栄一の師でいとこの尾高惇忠の娘として下手計村(現深谷市)に生まれる。
父の惇忠が工場長を務める官営富岡製糸場の操業にあたり伝習工女を募集したところあらぬ噂によって集まらなかった。そこでゆうは、父の意を汲み取り、新しい技術のパイオニアになる誇りをもって富岡に赴く。その勇気に感銘した子女が連れ立って志願したことで工場は操場することとなり日本の近代産業が発展することとなった。


北川 千代  きたがわ ちよ 児童文学者・「明るい空」ほか

深谷市  1894~1965
児童文学作家。日本煉瓦工場の工場長の長女として大寄村(現深谷市)に生まれる。14歳頃から少女雑誌に投稿を始める。童話雑誌『赤い鳥』に「世界同盟」を発表し、児童文学者の鈴木三重吉に将来を期待され、以後心温まる作品を多く残し、1964年には児童文化功労賞を受賞。死後、児童文学者の登竜門となる「北川千代賞」が設立される。


渋沢 栄一  しぶさわ えいいち 日本近代経済社会の父

深谷市  1840~1931
渋沢栄一翁は、「論語」の精神を重んじ、「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立に努め、設立に関わった企業は、500余りに及んだ。また、社会公共事業にも熱心で、「忠恕のこころ」(まごころと思いやり)を基本理念とし、数多くの病院や学校づくりに尽力するほか、国際親善にも寄与した。


畠山 重忠  はたけやま しげただ 武蔵武士
深谷市(旧川本町) 1164~1205
鎌倉幕府成立に尽力し、武蔵武士の鑑とうたわれた。また、北武蔵地方の開発に力を注いだ。


藤田 貞資  ふじた さだすけ 和算学者
深谷市(旧川本町) 1734~1807
江戸時代中期の和算家。武蔵野国男衾郡本田村(現埼玉県深谷市)に生まれる。大和国新庄藩士藤田定之の養子となり江戸に出る。幕府天文方の山路主住に師事し暦作観測を手伝う。天明元年『精要算法』(三巻)を出版し広く江都の算学者に受け入れられた。続いて出版した『神壁算法』、『続神壁算法』でさらに名を高めた。


本田次郎近常  ほんだじろうちかつね 武蔵武士
深谷市(旧川本町) ---~---
畠山重忠の重臣で平家追討の戦いで活躍。重忠とともに二俣川で討ち死した。


渋谷 塊一  しぶや かいいち 茶業興隆に尽力
白岡町  1893~1971
旧日勝村の自力更生事業に傑出した力量を発揮した。昭和39年には県東部の茶業の興隆と狭山茶の振興に尽くした功績で黄綬褒章を受章した。また、若い頃は北原白秋の門下として農民の生活を題材にした短歌や戯曲などを作った。


立川 福治  たちかわ ふくじ 仏師・全国の社寺に像が残る
白岡町  1909~1986
立川家は初代音吉、2代初五郎、3代金禄と3代続いた仏師の家である。立川金禄は父初五郎から仏師としての修行を積み、興善寺の水子地蔵、寝釈迦像、白岡町立篠津小学校のブロンズ像を始めとする数多くの作品を残し、県内では、大宮市、岩槻市(ともに現さいたま市)などの社寺や成田山新勝寺、四国の金比羅宮の随神など諸社寺に仏像や神像を残した。日展にも「シャモ」等を題材として24回入選している。


渡辺 多伝司  わたなべ たでんじ 農業普及家・乾繭事業の振興に尽力
白岡町  1881~1959
昭和初期に乾繭組合設立の気運が強まると、当時、南埼玉郡農会長であった渡辺多伝司は乾繭組合の設立に尽力し、設立後は理事組合長に就任した。また、共同乾繭共同繭倉庫の建設を推進する等、乾繭事業の振興に活躍した。

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